2015年12月2日水曜日

「あかね空」   山本一力

2015年12月2日

by Etsuko.S

京都で修行した豆腐職人永吉は、銀九百匁(十五両)を元手に、江戸の深川で豆腐作りをすることを決意する。
この物語はここから始まるが、単に豆腐職人の苦労だけではなく、市井の家族の二代に続くあり方を、夫婦・親子・兄弟妹・嫁など人物の性格を的確に描写し、物語の起承転結を起伏に富んだストーリーで、読み物としての面白さを出している。

富岡八幡宮そばという設定は、産まれた時から八幡様にお参りする習わしだったであろう。それが、ちょっとしたアクシデントから、一途な性格のおふみを変えてしまい、長男栄太郎を身勝手な若者にしてしまう下りは、現代にも通じることで、夫婦・親子がひとつ屋根の下で働く豆腐屋であるために、ますますこじれていく。

しかし、長男栄太郎のどうしようもないだらし無さも、弟悟郎には優しい一面をもった兄であり、悟郎の嫁すみに冷たく当たる姑おふみも、内心では孫のことを思っていたという描写、また子供達が、父も母も亡くなった後とはいえ、若い時の仲睦まじい二人のことを知ることができたのは、小説の中とはいえ読者として救われるものがある。

この京や家族の周りの人物設定は大変面白く、江戸の時代ならではの仁義のようなものがあり、相州屋夫婦、江戸屋女将秀弥、棒手振の嘉次郎、因縁の人物傳蔵や鳶頭の政五郎は実に格好いい。また平田屋の庄六の小物ぶりもその姿が目に見えるようだ。

母親の死により、また平田屋の詐欺まがいの行為の挙句、傳蔵の台詞「堅気衆がおれたちに勝てるたったひとつの道は、身内が固まることよ。壊れるときは、かならず内側から崩れるもんだ。身内のなかが脆けりゃあ、ひとたまりもねえぜ。」は、この家族を新しく再生させる言葉だった。

文庫本のあとがきに文芸評論家縄田一男氏が、作家山本一力氏の人物を書いているが、その生き方はかなり破天荒だったようだ。
家族がひとつになる「家族力」というものを、作者が経験したさまざまのことを踏まえ、江戸時代の市井の一家族になぞらえて「あかね空」を書いたのだろうか。
現代の誰でもが持っているであろう家族の悩みと、その対処方を描いて面白い読み物になったのではないか。                         
 

by Eiji.K

◇ この小説は一週間で一気に読めた。筋の展開が早く、文章もしっかりしており、読み応えがあった。直木賞受賞作品としてふさわしい内容であり、大変面白く読めた。

◇ 落語に出てくる“はっさん、くまさん、ご隠居”の世界や時代劇に出てくる長屋の様子がリアルに目に浮かぶ身近なものとして感じられるのは小説としての表現力が優れていることによるのだろう。

◇ 江戸時代の町民長屋はお互いに助け合わなくては生きていけない世界であり、周りの住民や行商の人達との繋がりが緊密であったことがよくわかる。このような庶民生活は昭和30年代以降の現代で失われてしまった。

◇ 自助・共助・公助という言葉があるが、共助は日本人の自然環境と長い歴史の中で培われた優れた特質であり、今日でも自治会・町内会という形態で継続している。しかしながら、最近のそれらの加入率は落ちており、個人単位の繋がりに変わってきているのは経済的に個人が自立していけるようになったことによるのだろうか。

◇ おふみの栄太郎への溺愛は異常である。栄太郎が幼いとき死にかけた怪我について富岡八幡宮に願掛けしたことと、悟郎の誕生と父親の事故、おきみの誕生と母親の事故等の罰当たり意識により悟郎とおきみに辛く当たっっているが、それだけ庶民の精神的な支えとなっていた八幡様などの身近な宗教に対する思い入れが大きいことがわかるが、この感覚も現代の日本人は失っている。

◇ 江戸時代の経済活動の基本は家族であり、家族全員で作業分担し完結させる。現代では製造する工業製品とスーパー等で売られる商品は一貫性が感じられず、効率性が最大限追求された商品にはぬくもりのようなものは感じにくい。

◇ 傳蔵は相州屋のさらわれた息子であることを本人が知っているのかどうかは不明であるが、相手を見極めるときに人を使って情報を集め、行動するという現代的な手法を持っているなどアウトローの凄さと厳しさが感じられ魅力的な人物である。

◇ 相州屋の夫婦はさらわれた息子が生きていれば永吉のようになっていただろうことを思って、永代寺の商いを永吉にわからないように譲るくだりは人情話であるが、江戸時代ではよくある話のように思えてよかった所である。

◇ 解説で山本一力は3度の結婚と2億円の借金をしたと書かれている。この小説の人間関係の複雑さや家族同士のいろいろな齟齬、感情の機微等についてはそのような壮絶であると思われる実体験を持っているから書けるのかと思う。


0 件のコメント: