2016年8月3日水曜日

「浮雲」   林扶美子


2016年8月3日
by Etsuko.S

林芙美子は、明治37年12月31日 四国伊予出身の父と鹿児島県桜島出身の母との間に下関市で出生、八歳の時父と別れ、岡山県児島郡で母は行商人の男と再婚、尾道に七年暮らす。その間に通った女学校の図書室に4年間通い読書に耽る。
昭和4年自伝的手記のような「放浪記」刊行、昭和26年「めし」を朝日新聞連載中に死亡。   

戦時中ゆき子は、ベトナムのダラットへタイピストとして赴任、農林技師の富岡と会う。
そこは南国の楽園のようなところで、本国では必死の戦争が続く中、二人はやがて恋に落ちる。一見皮肉屋のようにみえる富岡だが、内地で孤独な生活をしてきたゆき子には魅力的に思われ、妻帯者の富岡は帰国したら妻と別れてゆき子と一緒になることを約束した。
 敗戦後、富岡に遅れて帰国したゆき子は富岡の家を訪ねるが、彼は農林省をやめて妻とも別れておらず、家族を抱えてその日をかろうじて生きているような暮らしだった。ゆき子はそんな富岡にダラットでの生活や二人の関係を語るが、富岡にはすでにその情熱は無くなっていた。ゆき子は東京になんのあてもなく、すさんだ生活をしていく。……

戦後の荒廃した日本、仕事もなくすさんだ生活を強いられる日常、もはや恋愛どころかその日の生活にも追われる男女の姿。
富岡とゆき子の再会の場面の描写は、さまざまに揺れ動く二人の心情を、作者の実体験と筆の力をもって、読むものを惹きつける。
その後、会っては別れを繰り返し、富岡がゆき子を捨てるかと思いきや、ゆき子が富岡と決別する気になるなど、発展性のない関係が続き、そんな中、ゆき子の妊娠、伊香保への心中の旅、またそこでの富岡の浮気、そしてその浮気相手がその夫に殺害される事件などもあり、妻も病死、富岡は人生に絶望していた。
やがて、富岡は屋久島で営林署の仕事をみつけ、病妻も親の世話もなくなって身軽になった今、ゆき子との縁も切り、遠い屋久島で暮らすことを決意する。腐れ縁の伊庭の金を持ち逃げして、富岡の心を呼び戻そうとしていたゆき子は、身軽になった富岡と今度こそ結婚をと思ったが、富岡は応じない。ゆき子との古いきずなを切りたくとも切れないまま二人は屋久島へと向かう列車に乗る。鹿児島での船待ちの間にゆき子は発病、病身のまま屋久島に着く。ゆき子の看病をしながら富岡は二人の関係をさまざまに思い出す。ゆき子の死に顔をみながら、富岡はゆき子が一番自分に寄り添っていてくれていたような気がした。
富岡は浮雲のような己の姿を考えた。何時、何処かで消えるともなく消えていく浮雲を。

若い楽しい恋愛をした二人にとって、敗戦後の生活はやりきれないもので、男性は家族を抱え、女性は想い出にすがり、いつの世にもあるパターンではあるが、もともと孤独なゆき子は浮雲のような生活も苦とせず生きていく。想い出だけで発展性のない恋愛といつの間にか拠り所となっていた二人の心。二人きりの生活が実現するその時にゆき子は旅立っていく。
だらしなく、くっついたり離れたり、いかにも人間らしい姿、そんな人間の内面を女性だからこそ描き出せたこの作品。浮雲のように離れたりくっついたりしながら、やがては消えていく、時代はかわっても普遍的な人間の心情を描いた名作と、読み終えました。

by Eiji.K


文芸大作、日本の名作を読んだという感じがする内容である。少し文章表現が難しいところがあるが、幸田ゆき子のいかにも女性らしい感覚・視点が随所に出ており、男性側からでは書けない作者の力量だろうと思う。

一方、富岡についてはこのような優柔不断で退廃的なずる賢い人はいるだろうと思うが、腐れ縁のような関係を追い求めるゆき子は結局、家族、親しい友人がおらず、寂しさや孤独感から富岡を求めるのだろうと思う。

この小説の時代背景は敗戦によりすべてが大きく変動していた時であるが、戦争一直線の生活・思想・価値観が全く180度転換したときの日本人の虚脱感や喪失感についてはいろいろな小説や映画等で感覚としては理解していたが、生活に密着した日常生活の中でゆき子や富岡の言動がリアルに表現されていて改めて時代の変遷の激しさを経験した当時の日本人の困難さや大変さを知らされた。

自分たちの親世代は、この試練を皆、通ってきているはずであるが、直接そのことについて聞いたことはなかった。特に、戦前に勤めていた会社がなくなり、住んでいた住所も失われ親しかった人たちが周りにいなくなり自分の半生が全く変わった時、どのように対応してきたのだろうかと思う。

そのような時代だからこそ、仏印の恋愛を懐かしむゆき子と富岡の関係が続いたのだろうか。

ゆき子が死亡した屋久島には数年前に登山で行ったが、その時も一日中雨で財布の札まで濡れてしまうことがあったが、現在の屋久島は自然のままの貴重な場所として観光化しており、小説のような暗さや寂しさは感じられなかった。

この小説は1955年(昭和30年)に映画化され、高峰秀子と森雅之の主演でその年のベストワン映画となっている。高峰秀子のすばらしさが感じられる彼女の代表作品でもある。次のURLで見ることができる。

http://v.youku.com/v_show/id_XMjQ4MzQzNjIw.html
(中国語のCMの後に映画が始まる。)

0 件のコメント: