2017年4月5日水曜日

「沈黙」  遠藤周作

平成29年4月5日(水)
by Eiji.K

◇ 今までに宗教上の神というものについて考えたことがなかった。
私にとって、現代は“神は死んだ”(ニーチェ)という意識であり、無神論者であると自負しているので、この本に出てくる神の存在を信じ、危険を冒して布教するという伝道者の行為が理解の外にある。

◇ 神とか宗教とは何なのかという問題は、人類にとって根源的な問題であって、よくわからないが、絶対的なものを必要とする者が思考の中心に置いて、判断基準にしたいという概念をいうのではないかと思う。

◇ 今の時代の中で宗教が日常に出てくるのは葬儀の時である。死者を弔う儀式として、初七日・四十九日、三回忌等があるのはそうした儀式を実行することで哀しみを馴らしてくれている。それの意義を感じるから廃れないで継続しており、現在の宗教の存在意義となっていると思う。

◇ 以上のように言ってしまうと、この小説の感想が書けなくなるが、究極の選択を迫られた人がどのように対応・判断したのかということから考えれば、自分の思想信条を貫くよりもそれを曲げることによって他人を殺さない選択ができるならば、その選択の方が正しいといえるし、その過程を表現する作者の力量は十分感じる。

◇ 気になる表現
  井上筑前守:日本にキリスト教が根付かない理由として「日本人は人間とは全く隔絶した神を考える能力を持っていない。」「日本人は人間を美化したり拡張したものを神とよぶ。人間と同じ存在をもつものを神とよぶ。だがそれは教会の神ではない。」
  〇 日本人は偉人を神として祭ってきた歴史があるが、神が天地創造したという観念は少ない。(古事記にある〇〇命はあるが。)
 ・菅原道真…天満宮、天神   ・空海…真言宗 日蓮…日蓮宗
 ・秀吉…豊国神社       ・吉田松陰…松陰神社 東郷平八郎…東郷神社   

◇ この本に「ヴァリニャーノ」という歴史上の人物が出てくるが、先月読んだ辻邦生の本に『安土往還記』というのがあり、信長がたぐいまれな友情を覚えた人として書かれている。信長のような為政者が生き残っていれば日本でのキリスト教も様変わりしたのだろうと思われる。


by Etsuko.S

幼少期に洗礼を受け、熱心なクリスチャンだった作者の晩年の作品、「白い人、黄色い人」「深い河」の三部作のひとつである。
1587年に秀吉が禁教令をだしてから、キリスト教徒に対する厳しい迫害の事実があり、本著はその事実を、日本に宣教に来た実在の宣教師ロドリゴ(ジョゼッペ・キアラ)を主人公として小説にしている。
外国人である主人公が、日本語による述懐をするという設定を、違和感なく読みものにしているのは、作者の力量だと思う。内容の厳しさとは別に読みやすかった。
ただ、本書のテーマである「神の沈黙」を思う場面が何か所も出てくるたびに、私も戸惑う。キリスト教について、全く無知であるためか、下記のような疑問がわいた。

1、 日本人は何故キリスト教を受け入れたか?
2、 土着の神や仏教はその時どう扱われたか?
3、 異国の宣教師と異国の言葉に違和感はなかったのか?
4、 禁教令が出た時の反応は?信奉者全員が隠れ切支丹となったのか?
5、 本書のテーマである「神の沈黙」に疑念はおこらなかったのか?
6、 家族や仲間に対する迫害や拷問をどう見たか?
7、 殉教・殉死はどのように解釈するのか?
8、 ヨーロッパにも日本の禁教と迫害の様子は伝わっていたようだが、渡航の困難をおして、日本上陸し、宣教を試みる姿勢はキリスト教の教えによる「博愛」からか?
9、 棄教した主人公キアラ神父は80歳以上まで生存したが、その間の心理は?
10、 作家遠藤周作は、「神の沈黙」についてどう解釈したのだろうか?

 新潮文庫の佐伯彰一氏の解説によると、「神は果たして存在するのかという怖ろしい問いに答えがあたえられた訳ではなかった。しかし、ロドリゴの背教が、じつは神への裏切りではなく、キリストは棄教者の足で踏まれつつ、これを赦していたという信仰の畏るべき逆説」と書いています。そして「沈黙」はカトリック教徒のけわしい信仰の隘路をたどり、超カトリック、普遍的な宗教小説としています。

 「深い河」では少し理解できたのに、「沈黙」ではまたキリスト教徒が理解できなくなりました。                                 以上


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